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対話の中で「割合に調子がよい」という言葉も聞かれはしたが、話の大筋はどうしても終末期の話題へと傾かざるを得なかった。 できれば最終的には在宅の医療、看護を希望しているということであったが、私はまだその話は早いのではないかと引き取った。
ただし、闘病の果ての自然な死という思いには多少ふれさせてもらった。 私は末期に向かう患者さんに「日常と非日常」のすり合わせの果ての自然な死という、抽象的な話題をひとりよがりに開陳してゆくことがある。
七月一日T上さの次の受診はそれからまた三月後であった。 真冬の初診からはおよそ半年が経過していた。
一度は治療を断念しようとしたほどの病状からして、やはりこの六か月の経過はより厳しい現実をT上さんに突きつけていた。 前回以後、五月半ばにもがんの塞栓療法(TAE)を受けたが、それでもがんがまだ三つほど残されており、次回は八月に治療を予定しているとのことだった。
それよりも肝不全の決定的な兆候というべき腹水が出現し始めて、利尿剤の服用を開始しているという話であった。 いよいよ最後のステージに大きく一歩突き進んだと思わなければならなかった。
八月に入って入院中のT上さんから葉書が届いた。 主として腹水への対応に触れられてあったが、医師の眼からみて芳しい経過とは言えなかった。

にもかかわらず、短い書信の文脈にはさわやかさが多くあふれていた。 繰り返し読むうちに私はなにかその続編を求めるような気分で本棚の方へ歩み、「自分史に関する心理学的研究」という分厚いT上さん著作を取り出した。
前回の診察時、彼女から直接いただいたもので、正直言ってその時点ではパラパラとくる程度であったが、今回は少し気合をこめて入念に読み進んで行った。 浅学の私に心理学云々の水準の学問はどうにもわかりにくい。
五○歳を超えて主婦業のかたわら大学に学びなおした、晩学一○年の積み重ねがB5判二○○頁におよぶ博士論文とされる労作に集大成された観があった。 なによりも人間的な深みが全編を貫いていると思われた。
T上さんが「自分史の研究」という魅惑的なテーマを選んだ理由についておぼろげに解するようになるのは、彼女の生き方についてあれこれの情報が得られたずっと後のことである。 著作の最後は「論文作成を全面的に支えてくれた家族には感謝の気持ち」と結ばれてあった。
そのT上さんがいま家族に全面的に支えられて人生を完成させる日常に立ち向かっている事実に、敬度な気持ちにひたるばかりであった。 四度目にT上さんと会ったのは九月に入ってから病院外でのことである。
初秋というのは名ばかりの残暑の強い一日、私はT上さん宅に向かった。 この間、夫から電話で折にふれて断片的な消息が届いていた。
もはやがん対策は手の打ちようがなく、もっぱら肝不全の末期の症状、とりわけ腹水の対応に追われているという話だった。 腹部が膨満して苦しくなると三、四リットルの腹水を穿刺しているとのことで、その際、腹水の憶過濃縮といった技術について、夫と若干の意見交換をさせてもらったりした。
九月の第二週の土曜日の午前中に夫から、退院して在宅医療を軸に治療を継続しているという連絡と、病状に関する疑問点について問い合わせの電話があった。 もはや調子のよい慰めの言葉が通用するような段階でないことは明らかであった。

いまできることがあるとすれば最大の苦痛である腹水をなんとかできるかどうかである。 それは実際にこの眼で確かめないことにはなんともいえなかった。
その日の午後、私は夫からFAXで送られた地図をたよりに、T上さん宅に向かった。 海辺の駅から高台のお宅への急な坂道は残暑の日射を強く感じさせたが、緊張感のせいかさほど負担にはならなかった。
肝不全の末期は意識状態が障害されることも多い。 だが、自宅でのT上さんは予想よりもしっかりしていた。
いや、気丈にふるまおうと努めているようであった。 腹水で身動きのとれなくなった身体を横たえながら、娘さんに身振りでなにか指図をしようと必死であった。
「本人が気にしていますから、飲んでやってください」と、娘さんの手で冷たい梅酒のグラスが差し出された。 私の来訪に対してT上さん自身の気遣いで事前に準備されていたものと思われた。
その後、形ばかり診察をさせてもらったが、腹水の程度はもはや波動も伝わらないほどに膨満していて、身動きのとれない苦痛のほどがしばれた。 家族との間で、本人の食欲など二、三のやり取りを交わして、「月曜日には病院の先生と相談されてもう一度腹水の穿刺を考えてみられては」と、夫にもちかけた。
その実、本人に呼びかけているつもりであった。 一百たてば病状はさらに悪化して、もはや腹水の穿刺が可能かどうか、またそれが適切かどうかも定かでなかった。
ただこの期にもなお治療という希望を本人に持って欲しいと思った。 その状況で患者を励ませる言葉はそれ以外ないように思われた。
T上さん宅を辞した後、坂を下る途中の高台に立った。 眼下の瀬戸内の海が残暑の夏空とあいまってまぶしく輝いていた。
一個の生命が尽きようとするには不似合いな明るい光景であった。 末期の患者さんの往診の時にいつも感じるような人間の無力さのことが格別に思われた。

また坂道を下り始めたとき、私はもうT上さんと会うことはできないかも知れないと思い、二週間ほど前に彼女からもらった二通目の葉書の文面を反認していた。 T上さんは怜捌に人間を見つめる素養のある人だから、「精一杯がんばったが、現代いつまでも厳しい暑さが続きます。
いつもお心づかいいただき本当にありがとうございます。 先週の金曜日に腹水漁過濃縮をしていただいた後、外来でということで家に帰っております。
夫をはじめ医療関係の人にもほんとうによくしてもらい、自分でも驚くほど心静かに日が過ぎています。 逝く人間が家族や病院の人たちと、心を全開して話せる}」とをありがたく思っています。
どうか先生、くれぐれもご自愛くださいますように医学というものの限界だ」とある程度納得してくれているのであろう。 それならばせっかくT上さんがたどりついてくれた医療への信頼感を損なわないためにも、彼女の残り少ない日々のQOLがなお満足の得られる水準で維持されなければならない。
さらに「やれるだけのことはやった」と、家族にも悔いを残さないような内容を実現する必要があるのではなかろうか。 だが、がんの末期症状は多面的で、痕痛と衰弱と他のもろもろの症状が複合した死亡前の苦痛こそ最大の問題と力説する者も少なくない。
中心的な病像の痛みについては最近、麻薬の適量使用などWHO方式を軸に進展は目覚しく、癌痛コントロールが比較的容易になってきた。 目前の腹水や呼吸困難などにはまだまだ劇的な方法がない。

ここにきて緩和ケアということの概念の変更がしきりに言われて、患者さんの苦痛に対して病の初期からの取り組み・継続がしきりに強調される。 だが、やはり病期が進むほど厳しい諸症状の出現頻度が高まるのは当然で、一言で言って緩和ケアの難しさである。
一般的にがんの終末期では、ほとんどの患者さんは亡くなる一週間ぐらい前から自力で排便、排尿が困難になるほど日常の障害を伴う。 加えてT上さんには腹水による苦痛である。

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